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のぼりです


五能線

『誰一人として知った者のない街の駅に降り立つ』というテーマで考えたとしよう。


この文の入りから何を連想するかといえば、どこか物悲しい過去を引きずってそこ

まで辿り着いたとか、忙しい日々を逃れてやっと得た旅の途中を思わすとか、どん

な場所へも厭わぬエネルギッシュな営業マンの覚悟のほどを窺わせるとか、少しの

手掛かりを元に誰かを尋ね歩く人、だとか、たったこれだけの内容でも、読み手の

感性であらゆる登場人物が描かれていく。


これを更に現実に置き換えて考えれば、街とあるが雑踏音溢れる都会なのか、昔栄

えて今はその面影はチラホラとしか残らぬ古い町を言うのか、降りた無人駅の先に

小さな集落と見渡す畑や川や山のある風景を思わせるのか。

少なくとも家路を急いだり宿に直行するような、夕方や夜の設定ではなかろうし、

連れの一人くらいはいるかも知れないが、団体や大人数ではなかろう事。

朝なのか日中なのかは分からないが、雪深い場所でも風雨にさらされている設定で

もないなという事。


そしてこの時点で健康を損ねているのでもないだろうという事。そこに不安があれ

ばこんな雑な書き出しにはならないし、孤軍の佇まいを伝えるのにまずは相応しく

はない。

多少の金と手荷物の一つと、一人行く毅然さは秘めていると思って間違いない。

訪ねる当てがあるのかないのか、敢えてそれを求めず降り立ったのか、想像通りな

のか、想像したよりもイメージが違い過ぎるのか、だがそこがどんな場所や様子で

も心を動かされない頑なさを身に滲ませ、少しの不安の欠けらも感じさせないが、

果たして何かしらこの場所で動く覚悟は思わせる。



このように示された文の内容に人は様々な物語の端々を見てはその先を描こうとす

る。

限られた字句や状況だけでも、読む以上は経験や想像の何かしらを足しては思いを

馳せる。

これにもっと情報を足して、設定もよりリアルなものにすると、


『太郎は青森県は鯵ヶ沢駅に降り立った。20年来の密かな楽しみとしていた北日本

海行。秋田県能代市東能代駅から青森県南津軽郡田舎館村川部駅までの五能線の途

上、列車に揺られながら9月の日本海の広がりや、白神の山々の移ろいや、岩木山

の堂々たる姿に心を引き寄せられながら、鯵ヶ沢のアナウンスを聞いてふと降車を

思い立った。

今日の宿さえまだ決めていない、人生で初めての気ままで贅沢な時間の嬉しさと勿

体なさに、駅舎を出たところで思わず大きく伸びをしては美味い空気に一瞬頭がク

ラっとする』

の文だとすればどうだろう。


鯵ヶ沢に私は今住んでいますという人、俺の実家の近くだと驚く人、ああ以前私も

旅した場所だとか、よく耳にし知った地名だとか、どれどれとネットで早速覗いて

みようとしたりして、それを読んでの反応は先ほどとは確実に落ち着き広がりを持

つ。 

名前も状況もきちんと述べてあるから、太郎は9月のある日、以前より温めていた

東北行を実現出来たのだな。一人で五能線の旅をして満喫しているんだな。勢い見

知らぬ鯵ヶ沢を歩いてみる気だなと、その状況は読み手に等しく伝わる。


では伝わる事から更に連想できる事は、と問われたとしたら何が思い描けるのか。

太郎さんは何歳でどこに暮らしているのかな、何故五能線の旅を温めていたのかな

鯵ヶ沢の町の感想はどうかな、今日の旅のお宿はどこにするのかな。

くらいしか思わないだろう。


つまり前文のように、情報や状況の描写が少ないと、その現実を見据えた時には、

あらゆる事を連想したり予測してみたりする。

ましてやそれを自分の事に置き換えて考えると、自分も故あっての旅人だとすれば

一体私にはどんな過去があったというのか、長年の夢だった旅だとすれば、どんな

日常に生きてそれを温めて来たのか、新天地に転勤で来たのか、単なる短期間の応

援なのか、不安や淋しさはないのだろうかとか、お節介だろうが飛躍のし過ぎだろ

うが、ありとあらゆる事を考えては頭に浮かび、またその事を制限も束縛される事

もない。


これが後文だとすると、ふむふむなるほどと、その全体像が一読してわかり、私で

はない太郎さんの事だから、そこに敢えて被せて考える事にも限度がある。些少の

疑問や感動のおすそ分けや羨望はあるにしても、なるほどねと思考はそれ以上は求

めない。


情報が少ないものだと必死に向き合い考えて我が身と重ねては、その喜びや痛みま

でがわかり伝わる気がする。時にそのフレーズに自らが投影されるものなら、それ

は一生の間意識の底に生き続けることもあるだろう。

情報が多く表されていると、読む側から解説も案内も満たし、流れるままにその世

界を一気に進める。

端的に述べればその深さを渇望させては刺激として悩ませ、それを魅力とも味わい

とも時に乱暴なとも言わしめる。

丁寧に過ぎるとその道程すらも当然と知れ、考える間もなく次なるテーマが準備さ

れているかどうかのみに、意識の欲望は働きそれを人としての高みと無理くりに位

置づける。


苦労は安心で平和で楽な結果をと望んではその甲斐として果たすが、次なる者はそ

この結果よりを立ち位置として始まり苦労を重ねていく訳で、当然とした世界と新

たな苦労の重ねとなるから、それは原点よりは明らかに質の異なるものとならざる

を得ない。

三代四代と続くうちには、道程は漏れなく丁寧に記録し残すという賢さが前面に立

ち、それでも自分の代の更なる展開に重きをおく訳だから、当然今とその先にのみ

に意識は向かわざるを得ない。


世の中の仕事や学問はこうして受け継がれていく訳だが、人、一個人としての生き

方には、紛れも無く我がと我が身を確かめつつという、赤ん坊が日に日に成長して

いく過程を誰しも通る訳で、少ない知識、小さな経験を頼りに思考や想像を積み重

ねては、やがて大人として成長していくにつれての選択の多さに戸惑いながらも、

そこに必死に構え続ける覚悟を持つ。

単純がいいのか、複雑がいいのか、しかし単純は深さを養い、複雑は広がりを持っ

てその役を活かし、と共々に長短の存在を纏う。



途轍もなく情報の飛び交う社会となり、もはや身の回りは複雑さだらけとなった感

もするが、人の原点は本質はそのままとして腹に留め置き、我が身を助け守っては

楽しめて行けたらと願うばかりです。

私、この冬積年の夢であった雪の五能線の旅に出ます。



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