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のぼりです


『のぼかん』そのこれより

新年明けましておめでとうございます。

久しぶりにゆっくり起き出す朝は普段の休日よりも、その静寂さが溢れては迫り、否応なしに元旦

の特別感を思わずにはいられない。

パンを焼きコーヒーを淹れて、いつものように身支度を整えながら師走入りからつい先日まで続い

た、忘年会や新年に向けての抱負を語る会のあれこれが思い出されては不思議と気になる。


私は予定が立て込むとその準備や消化に集中するが、局面、局面はしっかり覚えているので、

それらが一段落するとあの時の質問、それについての返事、あの人の数年の変化ぶり、あの

グループの昨年の成果の発表内容の背景はとか、なにかと後で思い起こす事がよくある。

だけども、昼に何を食べたかとか、君といつ会ったんだと電話しては、昨日でしょと返されては呆れ

られたり怒らせたりと、集中といい加減さが同居する性格も、まぁ仕方ないという言葉以上には考

えないようになってるようだ。

これが私の歳の功と密かに思ってはいるが、越し方が納得出来てやっと次と正対出来るタイプだ

から、外目にはわからなくても、結構考えてはいるんです。

ただ自分自身への頓着に関しては人並み以下のようで、その考え方はまだまだ単純では、との

突っ込みが身近に多くあるのも事実だから、肩身の狭い思い切ない思い、まぁ色々あります。


昨年末特に多かった質問や議論の内容に、皇室や新元号についてがあった。

ここ数年世上の議論や関心の一つであった、「天皇陛下」の「生前のご譲位」も、日本国政府とし

てもそのご意向を尊重し沿うこととして、来たる平成31年4月30日を限りに翌日5月1日をもって

その継承が成される事となった。

ここまでのご苦労やご心労を思う時、そのご意向の内に継承が果たされるということは、まさに

「慶事」とされこれを祝う感情とするのは誰しも等しいものなんだと思う。

よって平成の世をまるまる一年と謳えるのは、この平成30年限りとなり、それぞれの胸の内に

これまでを振り返り何かしらの思いが過ぎさったり、芽生えたり、確信としたりとするのではない

だろうか。


一人の人生においてもその出生より始まり、入学、進学、卒業、就職、結婚、などと様々な節目が

あり、その事はそこまでの人生観のまとめに大いに刺激されるものがあり、これがその先家庭を

持ち、子を養いながらも、仕事において成功したり失敗したり、子の成長に応じて種々の悩みや

苦労があったり、人の出会いや別れの中に、喜びや傷つけあいや情けなさを重ねたりしながら、

その時々でそれらが混ざり合ったり作用し合ったりしては、複雑な感情を生んだり、それらに飲み

込まれたり溺れそうになりながらも、気がつけば私が私と強く自覚出来る節目に入っている事を

はっきりわかる時が来る。


それはそこまでの自分を真から認めたり喜んだり、こうなんだな私はと妙に落ち着けたり、ここま

で正しいの間違いのと、一々の反応に右往左往していたことも、白と黒の違いが面白くも笑えたり

もするようになるし、凄い、尊敬する、憎い、腹が立つ、と思う相手も、よくよく見ればその弱さにア

ホらしくも、情けなくも、無関心にもなれたり、これまで遥か遠くで、縁がない、わからないと疑わな

かった世界も、実は既に身近な存在としてそこに有る事に驚いたり、意外にも周りには君は大した

ものだよ、立派なものだよと評価を受けたり頼りにされたりして、そうかそうだったのかと素直に

思っては、その事を自分の頼りと引き寄せては、右へ走ったり左へ飛び跳ねたりしながら、あの

事やその事のその時をその瞬間を、自分がどう感じどう理解するのかを、とことん試したくなった

り、ハッキリさせてみたくなったりする。


その逆もまた逆より辿り、意外な自身の脆さに愕然ぶりを覚えるはずだ。

秀才だエリートだともてはやされても、社会という舞台に立てばそんな世界の底なしの深さがそこ

にはあり、負けるか勝つぞと力んでみても、力んでは為し得ないのが物事の原点であれば、頭で

計算をし尽くして臨んでみても、まだまだその先にたっぷりの奥行きと深さがこの世には横たわ

る。
恐れを為して大樹に寄りかかろうとしても、大樹はそんな者達の集まりで大樹と成立している

から、またそこでの争いや競いで心落ち着く暇がない。

ならばならばと、何かを頼りに生きようとしても、元来もてはやされ褒められて頭を撫でられてに

慣れた君が、簡単に他人の世界を受け入れたり軍門に下るとも思えず、不平や不満をおかずに

飯を食う。


それもそんな自分を見守ってくれる人を頼みにしての現実だから、意地やプライドや誇りの高さに

こだわっている者ほど、そこに終生自分が縛られこだわろうとするから、周りからは呆れられては

見捨てられる事もある。

それでも悪いのは社会であり、組織であり、アイツである事から離れたくない。離れるとは自身の

負けを非を足りなさを認める事であり、人生の負けであると吠えるが、既に負けているのにそれが

わからない。



負けがわかればそこからの新しい道はたくさんあるのに、開けられるドアがそこにある事すら気づ

かない。

その根底に「個性の違いを知る教育」が皆無であったという考え方の流れが今起きている。

人とは何が正しくて何が悪くての、極論の誘導だけがまかり通り、何故あの人はそうとしこの人は

こうと考えるのか、という単純だが根本の要素を大事に出来ていない。

というか、わかっていない。


例えば国家観において国家としての利益や存続について、いかに全体の意識を誘導する事の項

目が重要として外せないのはよくわかる。これは会社など組織においても同じだ。

だが「個性」というという最小単位はまるでほおっておかれていたかのように、驚くほどその個々

の意識に訴えるものは存在せず、人はこうあるべしかく生きるべしと、その極については導く意図

の世界は存在しても、そこに至る道程に学ぶものがない。

物理的に個々を意図して個々の願望を満たすものなど用意できないから、人はこんなものだ、あ

んなもんだという教えや観念の世界に導くか、良くてこんな行動や考えは心理学においては、こ

んな分類そんな症例の区分けに当てはまると、やろうとする動きや出した結果の、あるいはそれ

の予想される範疇にしか個性の姿は存在せず、それに飽き足らない人はどうぞ市井の学びより

選択しなさいとある。

だから人は言われなくても、どう生きどう考えるべきかを、他に求めそれを頼りにしようとする。

もちろんその姿は必至で真剣である。個々としての自衛より、冷静に落ち着いて最も自分にとっ

て必要なものに触れ学びとしたいと思う。しかし学ぶ側もその悩みの結果を知りたいだけなのか、

なぜそうなったのかそこに重心を置くかで丸っきり活かし方が変わる。残念ながら前者の割合が

圧倒的に多い。人は面倒を素早く片づけたいからその答えを早く知りたいと思うのはよくわかる。

ただしその示されたのが本当に自分にとっての答えであるならばだ。


例えば統計においての示された答えが自分にあっていればいい。その次もまたその次も納得の

結果になるならいい。だが子ども達に話すように考えて考えて答えに迫りなさい、答えを出しなさ

い、といいながら、答えをもらう事だけに長ける親の生きざまのどこに子ども達の手本となる世界

があるのだろうか。

持論として、必死に真剣に生きる親の背中を観て子は育つ。

何かを与えられなくても見せつけるものが無くても、成功でも失敗であっても、その必死さ真剣さ

を子は欲してそれに学ぶ。

子の顔色をみたり、子に親の顔色を見せれば、当然子は親にいい顔色であってもらいたいとし、

当然子は親の為に生きる事も自分の務めと考えるようになる、その分だけ子は孤独を養う。

だから親は子の前を臆病でも自信がなくても、そのありのままでしっかり歩けばいい。

答えをひけらかす親は愚の骨頂である。


こうやって大人になり大人として生き、日々に多少の物足りなさや不満はあっても、こんなもんだ

とまぁ納得として生きる人はそれで良しとしても、何かしら我が身に当てはまる論に触れたいと思

う人は、あれこれ彷徨いながらもその情熱を消す気にはならない。

なぜならば、我が事においての納得こそが、人としての根本に他ならないとの朧げなる結論を持

っているからであり、それをひたすら求めては見極めようとする。

そうあの小さかったあの子も、年月を経ては、当時の親のように人生の岐路や決断を常とするよ

うになるのである。親が示した金言など色あせて使い物にならないものが多く、そもそも個性の

違う親の絶対と私の絶対は途中から異なっていたのである。

それを悲劇にするか喜劇に映すかはそれぞれの器量として、そうと理解する頃は皆がいい年令

になっているのだろう。



そんな流れを見続けるようにして『のぼかん』も世に出して18年になる。

ここまでの記した事のそれぞれに沿う形で出来上がった論理としてあり、その不変ぶりに年々そ

の要望は静かに着実に世に問い試され評価されている。

遥かに先を想定すれば、そこまでの世の中の価値観すら覆す内容ともなるが、それは明快な「個

性の尊重」を謳っているからであり、勝ち負けや正義や悪という世界をも超越する考え方の中に、

日々の生きるヒント、人や物事の捉え方の示しがそこにある。


人は弱くて脆いが、人は強くて頼もしき者でもある、という考え方の「理論」がわかれば、少なくて

も今自身を否定しつつ生きる人々の五割は救われる。

今他者を責めつつ憤慨する感情に締め付けられている人のほとんどは、解放される。

「論理」とは、そうとなる事であり、そうと認められる事である。

「『のぼかん』の講師」はそこの開陳の練達を目指し、一刻も早くそこに行く事を望むが、同時に我

がと我が身をしっかり解放してこその次であるのは、忘れてはいけない。


世の中の全ての人が『のぼかん』を知る必要はないけれど、世の全ての人に当てはまる「論理」

であるとすれば、知って困る事は無く、知って納得が増すとすれば、そうと素直に話してはお伝え

すればよろしい事だと思う。


あまり伝え方に美辞麗句の力を入れなくてもよろしいが、真剣にきちんと文字に向き合い読み切

る覚悟は当然とします。

皆様の健康で毅然たる一年を祈念いたします。


日本語の持つ「力」「不思議さ」その「何故」に私は少しでも近づいてみたい。

その為の今年の幕開けだなと再確認しつつ、冷めたパンとコーヒーを腹に収める。

いつもの正月だが、いつもいつも同じではなかった正月である。



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