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のぼりです


師匠

私には「のぼかん」における「師匠」はいません。

考え方や物事の捉え方のお手本も原点もありません。

(父の事を知りたい)という自分の長年の欲求の蓄積より見い出し編纂した「観名法」ですから、

自分で感じ取り自分で検証し確認するを繰り返す。誰に期待される訳でもなく、押し付けられるで

もなく、ひたすらそこに没頭する。


編纂の途中も壁を感じ呻吟するような事も一切なく、文字通り私が見たままを観て、何故そう思う

のか、ではそれはどういう理屈で成り立つのかと、自分が問い応える形式の数年間を過ごしまし

たから、そこは楽しく充実した時間であったのは間違いありません。

今でも日々の起きている時間は、目に止まるあらゆる文字や形を、自分で定めた「形分け」や「字

の理論」に則り照らし合せながら、常に問答を繰り返しています。

見たままを観ると宣言していますから、その問答は頭の中で行います。



散歩していても、車を運転していてもその題材は無尽にあり、例えば飯屋に行っても、看板やメニ

ューの文字や、はたまた出て来た御膳の盛り付け具合や、食器の形状にも、たまには注文した焼

き魚の姿にさえも、その形の特徴を瞬時に考えてしまいます。

食べ終えて、味はどうかと問われても何も覚えてない時もあり、考え中にその美味しさに刺激され

て夢中になれば、非常に美味しいですねと言える。

だから私の味覚の基準は、食べる行為の途中で他の事に意識がいく可能性があり、尋ねられて

もなかなか答えようがないのです。


洒落た街中のカフェで美しい人と向き合っていても、用向きが終わると目につくもの全てを、この

形は如何にと考えてしまうから、「ゆっくりお話を」と引き止められても一瞬は目を合わせても気も

そぞろの体をなすようで、次にお声がかかる事はまず無い。

むろん肝心の相談内容は真剣にそれこそ周りが目に入らぬ位、その名前の文字に集中しますが

その余りの時間を共に楽しめる男ではないようです。


慣れぬ酒席で一杯のビールで酔眼朦朧となっても、意識は常に文字や形に行く。

カラオケに誘われて、マイクを握りながら歌詞の字幕の気になる文字にちょっと拘ると、ほんの一

瞬か声が遅れてしまう時がある。

きちんと聴いてくれている人にはなかなかのテクニックと映るらしく、存外の反応の時には少し照

れるがむろん照れる理由は明かさない。


全ての名前の文字の一つ一つ、言葉の文字一つ一つ、その形の有する世界観を考えその連なり

を解き明かす事が面白く、楽しいのです。

頭の中でのその作業や理論の流れが面白いのです。

苦悩に満ちた人が私の前にあっても、その苦悩の因は解決してやれなくても、その人がそこに至

る道程は理論に則ればわかります。そこを話すだけで思い当たるのは当人ならばこそですから、

たちまちに自身のここに陥った理由もまた抜け出す方法も本人が一番わかるし予感もできる。


どこにあっても誰であっても常々に苦悩や切なさは間違いなくあるのだから、私がその人や他人

の悩みや秘密としたことを聴いたとしても、当人が思うほどの関心も感動も湧かないものです。

むしろ正直に吐露してもらえた方が、理論に対しての情報として速やかに解決や処理に結びつけ

る事ができるので、それを常にお推めしています。


左右対称の文字はどうだと考えるより、例えば「十」でも幅何センチの上から何センチのちょうど

真ん中、というような規定がある訳ではなく、文字は人が書き読み考える文字として存在している

のだから、左右対称ですではなく、左右対称に近い、左右対称のような文字ですねと言うこと。

国と口、どちらも国構え的要素を持つあるいは我慢形とも言えると教えるけれど、それは四角で

囲まれた世界に主を置いているからで、口は書くと下の横線が少々短いから、国の外枠とは異

なる。
口は左右対称に近いと言えるが、国は中の王の横に点があるから、左右対称に近いとは

言わない。

こうしてその文字の一つ一つをその実態に沿い解き明かすのが、何の無理もなくその真意に迫れ

るし、その連なりの結果は辞典以上の説明も当然として準備される。



個人相談の現場、ここには世の常識の矛盾や倫理観の嘘や不備が大いに溢れ出る。

得てして学校現場で欠けている事、家庭の勘違いの親子関係、社会と個人の世界観の差異、な

ど迷いなく披露出来る。

そのあまりの個性に対する無頓着さや認識の足りなさや、それらが現実社会においていかに誤

解や不幸を醸成しているのかがよくわかる。

「苦労しなきゃ人は育たん」の金言も、苦労を経て得る事、学ぶもののある事実を、その胸に持た

ずして言うべきではない。

更に求めるとすれば、苦労の究極の感じ取り方は人それぞれに異なるという観点に立たねば

その説得はない。


ある程度理論理屈を理解し、その上で定めた生きる覚悟や目標や目的があれば自らの修正は

自身が果たせ、その途上の苦労は己の学びとして飲み込む事もできるだろう。

自らにしてそれが成し得ては、他者に向ける目も思いも湧き固まり、家族や学校や社会に対する

真の責務を受け入れ果たそうとする準備が成ると思う。


一つ一つ、一人一人は皆違うという「絶対的事実」に立ち、これからも講師皆さんが奮闘し、歩ま

れん事を願っています。



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