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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[十九]

「考える葦」
今日はおよそ2ヶ月ぶりの『定期』の診察日です。
かれこれ同じような間隔で21年ほど通う中に、向かう建物の少しずつの建て増しやその手入れや丁寧な保全の努力の賜物で、通い始めた当初に比べて駐車場から見る外観は立派になり、何より人間の生死を託される厳しき使命の施設として、そこは美しく優しく大きく包み込むような安心感を覚えます。
それは長らく通う私にとって『ここで精一杯の事をしてもらえるのだったら、どんな結果も受け入れられる』いつしかそんな心境にまでになっています。

21年前の明け方救急車に乗せられました。つい不安のままに、『何処に行くんですか』と隊員に訊ねます。訊いたけれども全く土地勘のない場所で生きてる身としては、『〇〇病院に向かいます』と告げられても見当もつかないのですが、苦しくてストレッチャーの頭部を上げてもらい車の後部の様子が見えるようになると、夜勤明けの車列が十数台も連なってるのが目に入ります。
追い越す事もなくライトを点けて整然と連なる様、普段目にしない状況に一種の感動と同時に、『葬送の儀』なる言葉も頭をよぎる。彼らは仕事が終わり我が家に帰るのか、我が家から仕事先に向かっているのか、そんなそれぞれの目的を持って今を一生懸命生きているんだなと、何んとなくそんな事を思います。

私はと言うと、不意の症状に身の危険を予感しながら、ギリギリまで耐えてもお願いするしかなかった救急車に乗って、明け方の見知らぬ街をこうして走っている。 無性に『心細さ』を覚えたのを今でも覚えています。
『一生この薬を飲むんです』入院手術を経て退院の予定も見えた頃、医者がそう言う。
『一生』という長さをまさか他人からそれも医者に言われるとは少し驚いた。
人や組織に自分の人生を委ねて生きるという感覚がなかったから、まさか『一生』という言葉を医者に突きつけられ、その重たくも何処かその現実に立った事を新鮮にさえ感じたが、なかなかその事実に馴染むまでは1年位はかかったような気がする。

それから20年位の間に緊急を要する症状が出て、二度ほど短期入院はしたが、およそ二ヶ月に一度受診するという年間のスケジュールが出来上がっている今は、半日以上それに時間は取られるが強制的な非日常を、リラックスして過ごすという心境に落ち着いてもいる。 人生における出来事というのは、まさに多種多様であって、『肉体を通しての情報の発信』も無視出来ない大きなもので、心身の異常や不調はその程度により、自分の生活やその先に即直結したりします。
ああしたいこうなりたいと素直に望むこととはまるっきり正反対の症状として、それは現れてはのし掛かり、たちまちに私の生活や人生そのものにも影響を与えたりします。それ以外にも一歩外に出れば、またその事を含む危険の種はあちこちに潜み隠れており、成長と共にその存在を知り、防御策もいつしか自分に備わっていきますね。

それでもそれでもと、それぞれの身に起こり得る事は、無い事を願うより有る可能性を高く考えながら過ごす事を教える訳で、この考えも恐らく誰にも共通するはずだろうし、ふと立ち止まると『一体幾つの要素を考え備え納得して生きなきゃいけないんだ』と、先の長い展望に少しくらいのため息も出てしまいます。
それでも我が身のことは我自身で励ますしかなく、気づけば自由で楽しいより、不自由で苦しい辛いのが人生とつい思ってしまいますが、だからこそ日常にちょっとした楽しみや夢中の瞬間や、趣味やライフワークなるものを持ち、凹んだ心理を底上げして、有意義なる時間、生活、人生へと静かなる闘志を抱き捨てられないのも、また人の習性か本能とも呼べるはずですよね。

人はか弱きけれど『苦ある故に湧く意思ありて、そこに自身の真の生きる意味を嗅ぎ得ようとする』 思考し工夫し挑戦し、撥ねつけられたとしても、またそこから何かしら思考し工夫して、今度はその途中に前回の撥ねつけられた意味を重ねて、おーそうかと知った喜びを糧にしてまた挑戦する。
生きることが苦しいだけなら、生きれる筈もなく、『失敗』の中に何かしらの自身だけの手応えを知るからこそ、それを試したくなる。その価値はあると感じるからこそ、瞬時に良しと決めてまた新たな心境と日を迎える。
この純粋な自分だけの切り替えは、決してそれまでの他人の眼や環境での評価を意識してのものではなく、自身が自分で追い詰めた先に知る、新たなる領域のものであり、それを『私は私、俺は俺』という意識の存在として育っていく事も同時に予感し知るはずだ。

だから、人は当初人生を上手く進むために努力する、と思いスタートするのだがやがて努力の果ては『失敗』かよ、という自分だけの結論を知ると、それは更に深く自分の人生を知り楽しむ『教材』を与えてもらえたという事であり、これが本当の『私のテーマ』という予感に辿り着くことこそ、努力の成果なんだなと朧げながらも『確信に近い』存在を持つ。
するとここまでの勉強や勤勉な生き様や良かろうとした努力は何だったんだと微かな疑問も湧くが、『私だけのテーマ』という『教材』を得る為の日月よとも応えられる。
つまりは人や世間から教え込まれた事は、『所詮は他人のそれを忠実に重ねなぞるだけであり、我が意思か我が求めかは知らぬままに取り組む事』のそれを越えない。
自分の人生を自分の意思で知り納得してみる、というところに実は人生を進む価値があると先に教えてもらっておけば、あーなるほど真面目に習い努力して試して『失敗』の壁を理解する事で、その領域にやっと辿り着き、そこからは自分の為の自分だけの努力や挑戦がある、という事だとよくわかる。

これなら一度や二度の『失敗』はしなきゃいけないのだなとわかる。
『失敗』すらせずに上手く器用に、人よりも高く格好良くを、目標だよと親や世間が喧伝するから、当然それを恐れても忌避しても、結果的にそこに従ってきたけれど、『逆』だったんだね。
所詮世間は人間の上べの事だけを『主で大事』として教えるが、本当はそうじゃないからこそ、失敗する事で『苦しんだり悩んだり自分を否定し切ったりしてしまう』のかとわかって来る。
だからこれまでの凡ゆる価値観を見直し、片や言われる『失敗こそが人を鍛える』の世界をゆっくりしっかり解説してやることが、大人として先輩として大事になって来るのだと、よくわかる。

そして『人』と一括りにするよりも、『一人一人の個性の存在』と先に教え知らしめれば、それは最も大きな励ましや自信の背景として、人を応援することにもなる。そこを現実にそうと平すにはとてつもない時間はかかるけれども、まずは『一人一人の個性は皆さん違うよね』という事を、言葉にするだけでもその意識は間違いなく変化する。
そう『失敗があるから真の自分に近づけるのだ』。 まぁその為に手を抜く術だけを知ってもそれは無意味でしかないが、真面目に生き努力をしての『失敗』こそ喜ぶべし、そこに自身の甲斐を知る世界があり、新たに始まるんだなとつくづく思う。
つまり人間はか弱きけれど、『何段階かによる人間力の確認と確信』、という考え方で、とてつもない可能性を秘めた一人一人の人間となる。そうダイナミズムなのである。

駐車場から200mほどの坂を歩き病院の玄関に辿り着きます。昔は歩く列の流れに遅れないようにと、がんばったものですが、いつしか追い抜かれその背中を見る、が普通になって来ました。
その先の威容を誇る病院は今日も美しく立派です。まるでその志を謳うかのように。
遠くに住む親戚よりも近しい頻度で定期的に訪ねるこの病院。
『一生薬を飲むんだよ』の言葉で段々に心も落ち着き腹も据わり、据わるものがあればその先の展開もそれを大事な要因としながら考えていく。
なんだやはり避けられない事実があれば、迷いない考えや目標へと繋がるのかと独りごちる。

採血した後、病院のレストランで本日のモーニングを摂る。起きてすぐに薬を飲む為に軽く食べるから、二度目のモーニングとも言える。
患者が多かったり時間が押す時は、名物の『本日のランチ』も食べて帰る。
知人達には『何しに行ってるのやら』と呆れられたりもする。依ってこの日は出来るだけ事務仕事に当て人に会わないようにします。
そう、あの日あとにも先にも初めての『心細さ』を味わった場所も、今やこの病院は身体の状況を診てくれ、お腹も気持ちも満たせるという貴重な場所になっています。

『人は考える葦』正に言い得て妙ですね。










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