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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[二十五]

「上へ参ります」
新年あけましておめでとうございます。
常に裏方として『のぼかん』を支えていただいてる皆さん、講師の皆さん、ここまで体験し学んでいただいた皆さん、そしてその関係の多くの皆さん、改めまして『のぼかん』のここまでの道のりへの深い感謝と共に、本年益々のご多幸とご繁栄をお祈り申し上げます。

70歳を超えた頃から覚える感覚で、新年を迎える度に自分の足元のリフトがガタンと一段上がる気がします。
これまでは錯覚かしらと思う部分もありましたが、73歳を迎えた年末年始では、その準備の段階まで感じ取れる気がして、その間違いの無さを味わってもいます。
いつものことながら、これはどういう事だと、慣れた問答の世界で得た答えは、間違いなくゴールへの流れに乗ったんだなという事。エスカレーターほどの滑らかなスピード感を伴うのではないけれども、1年経る毎にガタンと一段上がる感覚。

遠い昔と言っても50代の頃、人はどんな感覚で老いやその終わり迄を予感するのだろう、と思ってもその想定すら成り立たなかった事が、今何となくこれがそうかなと思える。
以前はそうと感じる時は、恐怖や混乱を伴いながらに有ると思ってもいたけれども、不思議とそれはありませんね。
一段をこなしたらハイまた一段と言う感じの連続に思えるから、一年一年を大事にと言う単純過ぎる標語も、ここまで来ると「ごもっとも」と苦笑しながら身近なものとなっても来ます。
無論個人々でその感覚は異なるのでしょうが、私にはそう思えるのです。
この先この感覚が続くものなのか、はたまた違う感覚となるのか、それはまた不明ですが、今はそんな結論を持って過ごします。

人の人生は歩き続ける事でしか自らの事実の証明は果たせない、それはまた経た時間の長さにある疲れの重さを伴うからこそ、そこに『1人の人生の偉大さその尊重』を力を込めて言いますね。
そう、自分もそうだからと付け足して考えるのでしょう。
あるいは自分の重さを理解してるからこそ、きっと周りも他人もそうだろう、人は皆そうなんだろうと、仮定しても外れない自信が何処からか芽生え育って来ているから、ひいては他人を大事に、自分も大事にと宣言しても誰もその事を否定はしない。
そんな事を人はあれこれ考えるからこそ、我が人生を大事にとまた標語を作る。こうして作っても作っても、どこかしっくり来るようで来ない、消化不良を抱きながら人生時間は刻々と進む。

大先輩の年齢を笑っては自らの若さを小さな誇りと支えていたのに、あっという間にあの大先輩の年齢に迫ると、自らの心情の安定感の無さに、淡々とあった大先輩の泰然さについ頭が下がる。
先輩や仲間や同僚や家族と絡み合う期間はまだいい、何となく身近にお互い様を思い合う事も可能となるし、年齢を重ねながら互いの変化を真近に見て知り学ぶこともあるだろう。
なるほどなるほどと、知り学べることはお互いに幸せだとその環境に感謝する事もあるだろう。
しかしその実態の深部には常に自分の心情の不安定さが寄り添い続ける。
その要因は自らにあると思うか周りにあると思うか、そこに感情のうねりが存在しこれが厄介だと認識し出すと、急に自分の心情の不安定さに慌ただしさを伴って苦しみ続ける。

人より経済的に満たされても、それでその事を払拭し切る事は出来ぬ、誰かに愛されてると知っても自分の根底の苛立ちは消えぬし、快楽の繰り返しに求めても、人より何かで優位を果たしても、その全てが束の間で消えすぐに過去となりその心情は居残り続ける。
何故それ程までに恐れるのか、そう自分に巣食う不安定な心情は、いつしかその歩みの途上で爆発する予感を伴うからである。
年々このままでいいのかこの先はどうなるのだろうと、根本たる自信の無さとして根付いて居る事がやがて恐れへと続く。
では、どうしたらの世界に人はあらゆる試みを持ち努力し、多くの安寧の世界を構築し提供して来た、知る事然り学びこそ然り経験する事然りと努力して来た。

そんな中で『のぼかん』も生まれた。
日本語をもってして我が名前とし、私を表し他と区別して『個』と主張する。そんな現代社会に生きながら、先に述べた問題を大なり小なり皆が抱えて生きている。
その過去を抱えこの現実を前にして。
「私は上 海州です」と名乗る日々だが、「今日は気分がいいのでジョン・マッケンローです」とは言わないし思わない。
そう名前への愛着度はともかく、自分の名前はこうだと誰もが理解し疑わない。
この絶対性の根拠に日本語としての文字がある。
そしてその書き順に沿っての字の構成と、意味をも理解する。
ただそれだけで終わると、名前など記号と変わらず他者との識別にあると言い張る人がいる。

確かに何を考えているかより、何をどうした、何を残したかが人の価値だという社会の論調では、それ位でちょうどいいのかも知れないが、時は経ち時代は否応なく変わった現代においては、脳科学からAIの世界まで、人の根源や心理より考え見つめ直す分野の開拓から、何事もその『個たる世界』の意味を知ることの必要性が、社会の表舞台にしっかりと立っている事を誰も否定出来ない。
つまりは根本の『個』の理解より始め、結果その『個』が何を為したかという順番にしっかり変化して来ているのだ。
その『個の解き明かし』の一部、つまりは『その人の発想法とは』に着目し、その違いを理解する事の延長上に『個性を大事に、個性の尊重』の世界が確立されると、『のぼかん』は謳っているのです。
その名前の文字の構成に足して、家庭環境に観る、それぞれの係る情報の捉え方の違い、主張の違い行動表現の違いを、全て『字の理論』を根拠として展開すると、『その違い』を理解出来る。

すると違うから異なるからと言う解釈を『正す』べき、としたここまでの風潮にあった強引さが全ての人を苦しめて来た要因とも位置付ける。
だから『何を為したか』の世界でその者の価値を測り、社会を勝ち負けの世界と意味付けて来たのだと理解出来る。
そこに親の愛他者への愛が救うのだと、神たる世界を崇拝する事で救われるのだとしても、因もわからぬまま無闇にその文言だけを撒き散らす事は危なっかしい話でそれならまずは、その『個たる発想法』を知った方がより本人の真意に近いはずで、これは同時に何よりの我が事も知る流れと繋がる。
一億総個性と簡単に謳うより、一人一人の『個性』の解き明かしを理解する方が、全ての関係者により良い事だと繰り返し言う。

生き方歩み方まで口を挟む必要もない、知れば周りも知ってくれさえいれば、人の本能、学んだ学問の反芻の結論に従い、その子なりのペースで必ず生き行こうとする。
そしてその関係者たる親や大人も我が事に尽くせば、子はその姿を見てまた子なりの個性で学び行こうとする。
そう誰もが我が道を歩む事こそ、その人生と落ち着く。
生きる事は試練の連続、出来るだけ無駄な感情は排し、ただひたむきにその個性を活かし合うことこそ、同じ人として理解でお互い様と尊重もし、元気な者が弱る人を支え助け合うこともまた当然ともなる。
それが『のぼかん』の目指す世界であり向かう意志です。
文字や言葉の存在する意味、人が学び生きまた人を育てる意味、試練にみる人の立ち向かうべき意味、それでもやがてその終結のある事実をどう捉え生きるかという、未だ知り得ぬ世界への高い壁。

幾つになっても考え悶え決め歩き、でもまた考える事を繰り返し歩く。
そろそろ壁に近づいて来ているのか、まだまだ段階があるかと不安でも楽しみでもなく、わからぬままにただ進む事も喜びとしながら、私の新年のご挨拶とします。
本年もどうぞよろしくお願いします。

令和八年正月
上 海州









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