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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[三十二]

「若者達を前にして思うこと」
昔の先輩後輩への認識は学校生活を送る上では絶対とも言え、その自覚は小学校の頃から始まったように記憶しており、そこから徐々に「長幼の序」の考え方に育っていったと思っています。
私の郷里には往時の海軍特別攻撃隊の基地があり、物心ついた頃には、大人のほとんどは、まだまだ何かしらの緊張感を溜めた所作があり、何処の子どもであろうとも、彼等の精神的価値観から外れる者は、容赦なく怒られるものでした。

時折り近くの婆様の家に行き、そんな風景の話しや疑問を口にすると、仕方ないといった表情で、苦い記憶の底から引き摺り出すように、当時の苛烈で深刻な戦時下の様子を聞かされたりもしました。
普段は明るく賢く明快な話しをする婆様の、その表情を見るにつけ想像だにできなかった当時の厳しさが伝わり、そんな時代を経て未だ10年位の頃の話しであるから、町が人が何処か殺伐とした顔を一瞬のうちに見せるのも頷けたものです。戦後は海上自衛隊と名称変更されご承知の通りであるが、その啓蒙教育の一環として、駆逐艦が来港すれば学校から艦内見学に行かされるし、潜水艦も体験しました。
何故かちょうど昼飯前に見学に行くので、食堂のテーブルには見たこともないような洋風の食事が湯気を立てて配膳してあり、自衛隊に入ればこうも豪華な食事の日常にありつけるよ、と見せつけていたのだなと今ならわかります。

悲劇に終わった戦争の結末を乗り越え、新しき日本の防衛力強化には、まずは子ども心に訴えるものから、というのもその理解は遠く後でした。
日本中にそんな空気感の色濃く残る時代で、それから高度成長へと向かう日本の始まりの時期にもあたり、様々な社会の混乱の中には、今昔交えた風潮や気運すらも入り混じり、そこに生きる大人達もまた、日々の緊張感に苛まれながらも、仲間や子ども達に大いにその背中を見せつけては、イキった生活ぶりを隠せなかったのでしょう。
私は何処に居ても真っ先に指を突きつけられながら、怒鳴られる役どころだったようで、友達からまた◯◯君が一番に怒られたねと、ヒソヒソと慰められては顔を見合わせては笑い合う。
子どもなりに大人達のどうにも切ない感情や悔いても詮ない悲しみや、またこの先如何なる世相に揉まれ生きるのかの不安や怒りをどの子も感じつつ、大人もあまりその鬱屈を隠そうともしなかったということだと思います。

そんな感じの子ども時代を過ごした。
そのうちにテレビが普及し洗濯機や冷蔵庫も登場し、ようやく文化的生活の向上なるものが、町中で溢れてくると、いつかしら其れ迄の不穏を秘めた空気感は徐々に失せていった気がします。
先の読めない社会の情報を、新聞やテレビラジオでその実態が知れるようになると、仲間で語らなくても、わざわざ他に教えを乞わなくても、自分の頭でその先の年月を思い浮かべる事が出来るようにもなる。人に頼らずとも、自分がその想像を固くする方法を手にすると、誰もがそうとなる。
つまり人は自らの思考を基に社会と対峙するのである。
議論や協調はその次の段階に位置する。
日本の本土の果てにあり、恵まれぬ土地に海に生きた者しかわからぬ、情報の渇望の果ての理解の貴重さが際立ち、我が身我が家の未来への可能性がそこに想像され大いに芽生えてくるのである。

中学校を出てすぐ泣きの涙で駅を後にして見知らぬ都会に働きに行った者達も、数年後には家の稼ぎ頭として家を兄弟を助け働く自信に満ちて、盆暮れに里帰りしてくる。
自分の肉体で精神で、社会的地位を勝ち得ているという強烈な自信は、輝かんばかりの存在感を放ちながら町中を闊歩する。
あー都会に行けばあんなにも変貌するチャンスがあるのだなと、誰もが認識する。すると一家上げて都会に移住する人も少しずつ増えて、痩せた土地や海とオサラバして、新世界での生き方をと目指す。
地元の国鉄、今のJRの駅や港では毎週のようにそんな人達を見送り見送られる、悲喜交々の風景があった。

私の家ではと言うと、そんな風潮に左右される気配は全くなく、この先をどうするこうするとの、大人の話題も感じぬままに、淡々といつもの如く暦を一枚一枚と新たにしていった。
それでも二つ上の姉が高校を卒業し、大阪府の紡績会社で働く為に家を出て、その二年後は父の選挙応援の為3ヶ月ほど他と遅れて、私も横浜の会社へと巣立った。
昔たくさん見た先輩達の心情をこの時ちょっとだけ味わいもした。先輩達のそれには、想像を逞しくしてしまう何かがあったのだが、自分の事にはその事実だけがのしかかり、決めたから行くという以上の何の感情も育たなかった。
あの頃よりもまだ陽気な気配の時代背景だったけれども、家を離れて家族と離れてという事実に立たなければ、真の心情も感想も知らぬものだなと、そんな事くらいしか頭に浮かばず、心は新生活に対して緊張感マックスであった。

あれから55年が過ぎた。今日は若者達を前にして『のぼかん講義』の最後の挨拶。
経済的理想の世界、知的理想の世界、物質的理想の世界は外に求め追いかけ、望み、願いやがて叶う事もある。しかし我が心の理想は他に外に求めても届かず満たされず、いつかしら我が内にこそその理解の根源のある事を知り、向き合い育てると自然の落ち着きを知り、長い心の流浪を思いやっては、真の気づきの喜びを改めて感じる。我は我、人は人、親子といえど、家族といえど、個性の集まりとそんな納得までもみる。
親は子の先を行くものなり、見せるのはその背中のみ、そこを見て子は考え悩み結論づけて、自らを歩もうとする。時に迷い立ち止まり狼狽えるが、その時その前に見る背中にまた励まされ、立とうとする。
顔は見えずとも、その背を見続けて考え進むのみ。

皆さんこれから頭で思う様々な事はまず書きなさい、何かを実行しようと思うならその頭の中の内容を、列記しなさい。
覚えてると思っても、ほとんど忘れてるし、覚えてる事は、意外に思い切り狭く小さな事だけで、尚更意思や意見がまとまらないですよ、だからまず書きなさい。
行動に移したい是非やりたいと思う事は、まずは書きなさい、そうそれがその行動の始まりだからです。

そんな事も何回も何十回も繰り返し失敗や中途半端に終わった経験に観ると、頭だけで考える事って意外と狭く偏ってるのだと、サポートや手助けしてくれる人とていない世界で生きると、尚更全ての結末は自分に降りかかるのだと知るものです。
反面、長らく家族仲良く過ごして助け助けられて生きた人たちの、そんな暮らしにしか分からない幸福感はあるかも知れないが、所詮社会は一人の個性のその集まり。
一人一人の強さとしてみれば、圧倒的に個で耐え生き抜いた人の方が、真の苦しみ真の楽しみ方を知ってる気がします。
世間には出ない、美化もされないが、自分が納得してその身を削って生きたコツや証を有する者は、他に社会に頼らずとも、社会の評価なんか二の次にして、私の人生の為として社会の位置付けを持つ強さがあり、汲々とした狭い視点に止まる事なく、遠く我が身の決着の付け方までやがて知るのだろうと思います。

巷には老人が沢山います。事実ここまで来ると、他人との会話でも一歳二歳の違いなどあまり関係なく、「お互い様気分」が徐々に芽生えるのだろうと思われます。
昔あれほど上下の厳しさにある種の身の引き締まる気分を覚えたものだが、歳を重ねるとそれが徐々に失せるのだとは、正直驚いたものです。
なんとは無しに、お互いここまで生き抜いたんだね、ご苦労様の気分が先に出てしまうと、何だか血の繋がらない兄弟姉妹の感覚を一瞬覚えたりもする。
これも、そういう気分になる事に驚き、ある意味感心するものです。
まだまだ大丈夫というのとは別次元で、肉体的にもここまで来ればいろいろ事情も都合も備わってくるし、生理学的にもいつポックリがあっても否めないと学術誌にも載っているし、何よりそうかも知れないなという予感が、最も大事にする感覚になっており、歳をとる事の一層の煩わしさと共に、達観の備わりつつある年代、という自覚も確かにあるといえるのです。
だから何かしら集中するものが有れば、それはとにかく有り難いもので、そう楽しさであり、未だ眠らぬ底意地の負けん気の確認でもあるのです。

だから皆さん、あまり将来に向けて悲観する必要も、先に答えを用意するものでもないよ、というお話しでした。
一日一日をとにかくあった事思った事、先の夢や悲しみや不安も、書き記す事だけは、やった方がいいという今日の結論でした。
今夜は遅くなりました、雨もあるかも知れません。気をつけて帰り着いてくださいね。

『家を出たら帰り着くまでが私の仕事。』
これがこの50年来の私の決め言葉です。とても大事にしています。











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