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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[三]

『私と学び』
「宇宙」の広がりを考える時には、その対極としての延長上で「素粒子」や「ニュートリノ」の世界も考えられますよね。つまりは大きい世界を考え見続ける時は、その原点を知らなければ始まりません。
大きい建物を建てる際にも土台たる地盤や基礎にまずは一番注力しますね。
人の世界も大きく強く立派にを目標にしようが、自分なりにしっかり歩ききる事を納得としようが、私達自身つまり原点たる「個性」に帰することを我々は教えられなくても、どこか本能として理解していますね。
この子の「個性」の有り様を親や保護者や監督者がまずは知り、成長の過程でその子が状況に応じながらも、普通に学び教えられて、やがて社会人となってもその学びと教えはあり続ける事を知る。ふとどこかで自身の「個性」を強く確信出来るようになるからこそ、他の「個性」も等しく尊重し公平性に満ちた考えを基に続く人々への道が出来る。
これを綺麗事ととるか理想ととるか、三度読み直すと意外と無理なく理解出来ますよ。

前号の途中に「なぜ大学に行ったり勉強をしなければならないのですか」の問いに「自分の人生の選択肢を多く持てるという事だよ」と応えると書きました。付け加えると、社会にある教育のシステムを知り理解する事も大事だと。
つまり前号での「自分流」というのは大変貴重であり、とても大事な要素ではあるけれども、個人的環境が許す限り、用意されたシステムにも乗り歩を進めてみると、社会におけるそのシステムの意味や機能がよくわかる。
つまりは社会や国が追求する「教育」の実態を同時に知り得るという事を理解していただきたいと思う。そして誰もがそのシステムに乗っかる「権利」も「可能性」も与えられているという事。
そういう理解を重ねて行った上でいずれ「自分流」を磨いていくというのが一つの理想かなと。

誰であっても向かおうとする場所に行く事で、その道程の様子も状況も知りその地に立ち「風」も「匂い」も「音」も「空気感」も知る。
今自分が置かれている環境から、体験したり見聞きする事への、好きとか嫌いとか良いとか悪いとかの感情を優先する前に、今に生きる自身の環境や背景や意図は、大まかにこういうことか、この意図に則っての背景にこの国があり、その内の教育の世界はこうして構築されようとしている事を知る。
こうして知識量や判断の広さ多さと共に、その提供の世界はいかに有り何処までのレベルで出来ているのかを知る事。そんなこんなの世界を眺めつつやがて「自分流」を発揮し磨いて行っても遅くはないでしょうよということ。

実は今生きている壮年、老人と言われている層は、長年生きて来た中でそんな社会の構造を、自然と覚え理解して来ているものです。しかしそこには、自分が理解して身につけたことについて、もっと若い頃こんな全体像を先に知る環境にあったならばと、そこの消化不良の点はもっと早く解消されていたであろうことは恐らく誰もが持っていると思います。
経験がそこを教えたではないか、と言う意見もあるが経験とは拡大すると現実にあってのある種の右往左往に自身が翻弄され、やっと立ち止まれて落ち着いたからこそそうと言える世界で、この社会のメカニズムの事を教えることこそ、きっとあの若さゆえの不安や恐れと思っていた世界も違う色合いと手応えで生きて来れたであろうという思いはあるはずなのです。
だから大概の大人は、子どもが勉強をする、教育に親しむ事を、否定する人はいないと思っています。
それは苦労すればするほど、悩めば悩むほど、知りたい勉強をして間に合うようにしよう、失敗しない為には寝ずに準備してその日を迎えようと大人になればなるほど、そんな生き方生活の仕方をここまでしているからです。
同時に一夜漬けやコピペで間に合うような薄っぺらい生き方の情けなさを大人自らが肌身に知って来たからだということ。
すると、現況の成績優秀なればこそ「立派」の一面だけが一人歩きして来た歴史にあって、本能としては無理難題を幼な子から押し付け求めて願い祈る実態に、実は誰一人として納得はしていないという事です。
成績が良くて人より優秀の位置を保ち、いい大学いい会社や役所に根付くことが「いい人生の手本」になっていない事を、大人の誰もが間違いなく知り理解しているのです。

確かに親が家庭がこの子の個性に合わせて、ゆっくり確実にと望んでも、ガンガンの詰め込みや親次第・本人次第という暗黙の競争世界の感触を幼い頃から知らされると、たちまちに萎縮と緊張が面白さに向かえばいいが、苦しさにとなるとその苦しい理由を、ほぐし楽しくと語ってやれる場所も器はどこにもない。
そこで安易に「人としての尊重」の主張がしゃしゃり出て一気に一つの正論ともなっていく。こうしてそれが正論ならば忽ちにそこにしがみつこうとする親は多く、言い訳としてここは逃げ場ではなく安息の場としてある事を強調するが、生きることにそうそう安息など要らないのに、苦しみ疲れているのだから安息をと。やれと示して強調する事は疲れ苦しむ事だと親が宣言しているのに、親子の仲ではそれをベストの選択として維持することに躍起になる。こうしてますます変な展開にとなっていく。

子のため子を想う親の意思として我が家庭の意思としながらも、少し身を引いて考えるとそんな窮屈な考えで果たして長続きするのかしらとも思ってしまう。
学校が嫌なら嫌いなら行かなきゃ行かせなきゃいいだけの事で、それでもよくよく聞くと学校教育の中の、あの人がこの人が、あの先生がと、その現場の環境に不満があるだけで、黙って学ばせてもらえば基本的に学ぶことを嫌う子はいないようだし、自分が何かを知り実行できた、達成出来る事は人として単純に嬉し楽しのはずである。
だから学校教育のシステム以前の学校の授業環境の問題で、『学ぶことの大事さ面白さ』を失うのは大いに勿体無い事。だからその分「自分流」を磨く事で自分の『知る事への渇望を満たす』訳で、そういうシステムに無知だったり慣れぬままに世に出ると、その『深さ』の難しさについ我を張る事でその存在感を示そうとし、深める前の準備段階で先々の難しさを肌身で感じては腰が引けてしまう。

なんだかまた紙数が足りそうもない気がして来た。
この『独歩百歩千歩』の世界は、私自身の立場的にそろそろここまでと線引きの覚悟とともに、これまで溜め書き置いた資料より抜粋して私の意見としてご披露しようと考えています。
私は学も無くそれこそ育った環境も時代もまだまだ荒削りとしてあった中で、早くから独立を強いられやる事為す事の失敗や気苦労の連続で、それも悪い面のみが目立つ生き様で、それでも妙に「しょうがない」と割り切りながら生きていた自分を、どこかしら客観的にいつも眺めては、足りない点だけが勝ってはバランスに欠けたままで生きている状態でも、ならばこのままでとことん行ってみるかと自分を脅しては試す変な性格だなあと思いながらも、目の前の壁を見苦しくも不器用にでも這い上がり越えて来つつ、支えであった自分一人の考えのみで来た事への疲労が、最高潮となったであろう時に『のぼかん』を見出す始まりがあった。

『一人で考え生きる』と書けばカッコ良くもありますが、実態はそんなものではなくて、常に不安だから恐ろしいから自信がないからひたすら考える。
誰かに聞けばいいじゃないか、泣いて助けてくれと言えばいいのにの考えはあるが、その条項を持たずに来たのです。
だから自分がもうダメだと思わない限りまだ何とかなると真面目に思え、恐らくここまでだなと思えば恐らくそこまでなんだろうとの予感も同時に持つ。
だけどもその手前で『病』を発して結局その想定の手前で身体がもう無理と言い張り、一歩先に進む事もならず、そこから『病』という自分の内に居ついた新しい存在を大いに持て余し付き合いそれでも受け入れる努力をしながらの途中で、『のぼかん』の発案となったのです。

そのバタバタの最中にもずっと考えていたのが『教育の必要性』でした。
自分の情熱や使命感や負けん気などというレベルで生きて来た私に一番欠けていたのが、『教育より学び知り生きる事』でした。
この言葉の真反対の生き方をしたからこそ、自分に足りず無い世界への気づきは鮮烈としていつまでもあり続け、その世界に踏み込む事を想像しただけでも何と素晴らしい世界と夢想して来ました。
そこでその時の私に出来るその世界に近づく法として、私の『個性』『環境』に沿ったのが『のぼかん』であり、これがこれでもかこれでもかと理論的世界として立ち塞がっては新たなレベルを教え、またそれにひたすら向かう事で、それまでの社会のシステムにはない世界の内容だったけれども、私の『勉強』の追究の相方として居続けてくれたのです。
だから子どもや若い人達が、もっと伸びやかに集中して勉学に取り組む事こそが、各自の『悩む事の工夫が楽しい世界』として人生の支えとしてあり続けるだろうと思っています。

この国がまずは教育の意義を、人として楽しく真剣に生きる為の等しく提供される世界として、もっと真面目に丁寧にその施策の中身の大事を語り、『教育を友として生きる社会』作りこそ、国是とし声高に知らしめれば、弱き一人間はその導きに従いつつその視野も理解も深め、国を信じ家族を信じ仲間を信じひたすら一人の人間としての成長への追求を持つものと信じます。
『自由主義』という名の『自由』の困難さに、誰もが立ち向かいつつ勝ち負けしてはいずれも人としての根本は何かと見失い考え、うろたえ怯えては来し方の不条理に気付く。
『自由主義』という名の根底に『まずは教育有りきの自由』を付け足すだけで、その影響はとてつもないものとなるはずです。
なぜならば、人は『個性』として生まれ育つ。この入り口スタートが安定していれば、その延長上に人は生き進むのです。

『下にあるほど漏れなく積み上げねば、上になってからでは遅いのだ』は言い換えると、『下にあるほど丁寧に大事に教え慈しめば、上になれば「その個性」を駆使して真剣に伸びやかに生きるはずだ』となりますね。
まずは国が我らの親たるもの。そしてその方針は国の国民の礎として生き未来を担うもの。
そして同時に「主権は在民」一人一人よくよく考えてみる必要があると思います。









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