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のぼかん

のぼりです

 「独歩百歩千歩」(どくひゃくせん)[二十二]

「能力と実力」
私が個性の違いを真面目に感じたのは高校一年の時、へーこんな仕事してるにはずいぶん遅いと思われるだろうが、「個性的」とか「個性の違い」とか、その頃巷で囁かれてはあったのだろうが、とにかく未だ上意下達、体育会的な風土に生きていたから、そんな上品な言葉は知らないと言っても良いくらい縁遠いものだった。
強いか弱いか勉強が出来るか出来ないか、位が現実の高い尺度としてあり、個人の好みや思考などは秘めやかなもの、と位置付いていたと思います。
では冒頭の感じた時とは、教室においての割りと落ち着いた雰囲気の時間帯だったと記憶しているが、担任だか教科担当の質問にK君が、「僕はやれば出来るタイプだと思うのですが、なかなか勉強や試験の期間をうまく過ごせず、残念に思っています」と言ったのです。
ほーK君は自分はやれば出来ると言えるんだ、と私は正直驚いたのです。
自分はやれば出来る、を二、三回反芻してみて、やはり自分にはない言葉で、それを皆の前で披露出来るんだと、とても驚き今でも数少ない高校生活の想い出の一コマに彼の存在があります。

今と違って『のぼかん』のない時代ですから、当然顔と名前をお互い見知って、その学校生活を通してのみ、彼はこうかな、アイツはこうだなと、「印象」としての性格付けをするくらいで、「好きか嫌いか」のレベルに毛の生えた様な感想しかないのですが、臆面もなく自分の秘めた可能性を宣言するK君に、一種の凄さを覚えたものです。
彼は真面目さもあれば、控えめだが笑いも解する人という印象だったのだけれども、その言葉を聞いてから意識して言動に注意してみると、少しの暗さも滲み出る奴となりました。
その後三年間の生活を共にしても、決して前に前にと出たがる訳ではないし、常に安定的なポジションで振る舞うし、誰からも好かれ安心されるタイプとあったと思います。でも時折り「~こうあるべし」といきなり主張することはあったから、やはり思うところの絶対は外せないのだろうと。

今『のぼかん』という世界より、文字を前面に(全面に)据えて観て考え、言葉にする仕事をしていますから、当然K君の名前を題にしては、解き明かしは出来ているのですか、やはりあの3年間の印象通りと理解しています。
するとK君があの時なぜあんな事を言ったのだろう、自分のことを皆の前で秘めた優秀さを宣言するが如く、あるいは耐えきれなさにぶちまけた様な印象を与えても仕方ない背景はなんだと思うと、様々な要素が浮かんでもきます。
それでもそこの心理は彼にしかわからないのだけれども、こうしてあの時あの後も含めて接した印象が、『のぼかん』で当然の如く重なることに、私の冷静さは変わらず保てるし、彼への評価の変わることもありません。
彼は、結果として示せてはないが、自分の『能力』はこんなものではない、と言いたかったのだろうが、それは同級生の私らに伝えたかったのか、私らの知らない背景に向けてなのか、それはわからない。
ただ当時の私の生活ぶりからすると、驚嘆ものであり強く印象に残っている。自己主張の得意な人、得意ではないを枕言葉にしての主張を得意とする人、なかなか控えめが厚く簡単に自分の本心をさらさない人、 周りに迎合することは誰よりも優れながら、自分は何者かと未だに呻吟する人。

それこそ千差万別、一億の個性の社会に生きるそれぞれとして、まずは誰にとっても可能性という言葉は等しく存在し、人生時間内においてどの段階からかは、個々で異なるだろうが、その個性は間違いなく発揮されて行くだろうし、周りや社会の評価はともかくも、自分らしく行く事だと人は自分に教え叱咤すると思います。
能力と実力、「10月の二十日会」での題として、原稿は用意してありますが、K君を思って筆を執った機会に大まかに話すと、『能力』とはその意図を感じあるいは自らがそうとして突き詰めて行く時、個々の背景や事実に反応、主張とする様を表し、自分のあるべき姿勢が、いかな対応力を有するかを確信としたり、可能性として示し得る事となり、どちらかというとこれまでを前提としながらも、未来へ反映し得る可能性、潜在的要素としての主張の数々となる。

『実力』とは、現実の社会や圧力や情報の程度に、対応し得る姿勢や備えを有し、その範囲内において確実に着実に揃え整えた事を、形として実態として組み上げ表す様となりますね。つまりは現にこうだと現す様そのものを指します。
それに対して周りや社会はそれらの基準より評価を下す、となります。
『能力が秘めたる要素の個々とすれば、実力は現したそのもの』となります。
K君はあの時、おそらく実力として示した内容に日々納得出来ぬまま、自分の能力としての奥行きやその高さを語った、つまりは自らがその未来像の高さを語り、それを私たちに伝えるから、「男子たるもの我が事を語るべからず」な古い風土には合わないし、唐突さを否めず大いなる印象として残ったのでしょう。あれから56年、ここまで来れば「誰もが言った者勝ち」、つまりは人生は自分に正直に生きるべし、とその意味を話せます。でも高校を卒業して56年かかり、人生の末期にそれをやっと我が胸に許し頷いているのです。

K君の名前、気になりますよね、でもせっかくですから『二十日会』でお話しします。
私の人生に一石を投じてくれた同級生として、尊敬の念を込めてお話しします。
卒業以来一度も会ってもないし、話してもいないしその消息すら知りません。それでも貴重な教えの入り口を教えてくれた同級生です。
『のぼかん』はあの時、あの頃の事を取り出しても、その理解に至ります。
『事実は変わらねど、取り巻く環境、人間関係の整理をすると、まさに事実あるのみとまとめられる』 人は一人で立ち、互いを理解し助け合うを旨とし、必死に生き学び学び学んで、後進に示しそして譲る。
もうその節に突入しました。まずはしっかり示しきりたいと思っています。











中級科修了式・水野さん


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初級科修了式・岡本さん


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