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のぼりりゅうかんめいほう




第161号 2017年5月1日更新

文字に観る不思議な世界





《 日本二百寺社巡り 第132回   京都市 毘沙門堂・隋心院・勧修寺 》    


 

                                                 
《毘沙門堂》
    
                             
   
                      書院前の枝垂桜

     
             本殿                      霊殿
    

     
           宸殿1                      宸殿2


     
            仁王門                     勅使門
 


     
            唐門                      経蔵


     
             鐘楼                     高台弁財天


《隋心院》

     
             庫裡                     本堂


     
            表書院                     奥書院
            

        
             能之間                     表玄関


        
            薬医門                     小野梅園


     
          小野小町歌碑                   化粧井戸


《観修寺》

     
             宸殿                      本堂


     
             書院                     観音堂


     
          大玄関軒唐破風                   山門


     
            中門                ハイビャクシンと勧修寺型燈籠


     
           氷室の池                    さざれ石


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《毘沙門堂》

毘沙門堂(びしゃもんどう)は京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。
護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。
天台宗京都五門跡の一であり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。

寺伝によれば毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)
行基が開いたという。その後平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代
初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。
中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り天海とその弟子の公海によって現在
地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推
定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基
であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあっ
たことがわかる。
また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末
期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。


参道

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、
平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路
に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。
置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(786 -
853
)の創建で、太秦(現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 - 1017
の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。
護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年
1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失
し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた
寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘
沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の
日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台
宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。
江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え
天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。
後西天皇皇子の公弁法親王(1669 - 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲
している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)とな
り、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。

《隋心院》

随心院(ずいしんいん・ずいしんにん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗
善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基
本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地と
され、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。


歴史

随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだら
じ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて
雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称が
あった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2(991)に建立し
た寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを
知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描
き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。
なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母
ではなく父とされている。

5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。
続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。
東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229年)
に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入
寺する寺院)となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺し
ている。

その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁
の乱によりほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐
橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年(1599年)24世増孝
(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧
正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条
尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。
御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院は「真言宗」にとどまっていた
が明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派
泉涌寺派として独立。随心院は小野派本山となった。
その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。昭和16
1941年)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺
が善通寺派総本山、随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、
随心院には能化が置かれている。



《観修寺》

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。
山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本
尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院
である。「山階門跡」とも称する

寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが寺では「か
じゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」
という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

18721030日(明治5928日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内
の一部が勧修小学校として使用されていた。


創建

『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去し
た生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の
邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立さ
せたという。
胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。
開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院
として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し江戸時代に入って徳川
氏と皇室の援助により復興された

宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。
弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に
生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む
家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお高藤と列子のロマンスについて『今
昔物語集』に説話が残されている。

創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。
勧修寺は延喜5年(905年)定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈
皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば胤子の没した寛平
8年(896年)以前の創建となる。


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《 今月の撮影者・小倉 光 》


今月は京都市山科区の三ヵ寺を撮影に行きました。この春の連日の肌寒さはその開花を
遅らせてくれて、撮影当日はまさに満開の見事な桜で迎えていただきました。
三ヵ寺とも市内とは思えないくらい緑に囲まれた趣のある、庭園の素晴らしい寺院でした。
今回の参加者は米井さんと小倉でした。ありがとうございました。

 

 Team200とは
「のぼかん」の毎月1日更新のホームページ表紙を飾る、『全国200神社 仏閣紹介の撮影旅行隊』の 略称で、ホームページ第139号、寺社巡り第110回より活動しています。
宗派、信仰教義内容に捉われず、日本の津々浦々における信仰対象となっている、日本独特の建造物
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『日本二百寺社巡り』の、200寺社巡り達成予定が2023年1月予定❗  元気に楽しく挑戦します。
応援よろしくお願いします‼


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『のぼかん』は、文字の形で
その世界観を観ていくという
今までどこにもなかった
観名法です

我が子の内面がわかりづらい
人間関係が苦手である等の
悩みについて、ひとり一人の
持つ名前より解き明かして
いきます

「文字の再発見」では講師の皆さん
の「文字の分析」を毎月発表して
います

『のぼかん』の文字の解釈が、
あーなるほど!と理解して
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