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のぼりりゅうかんめいほう




第158号 2017年2月1日更新

文字に観る不思議な世界





《 日本二百寺社巡り 第129回   奈良県奈良市 唐招提寺 》    


 

                                                 
《唐招提寺)》
    
                             
     
                        金堂


      
            講堂                       礼堂
    

      
          鼓楼(舎利殿)                  御影堂(玄関)


      
          宝蔵・経蔵                     南大門 
 


      
           新宝蔵                      開山堂


      
            戒檀                    鑑真和上御廟
            

      
             鐘楼                     醍醐井戸


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《唐招提寺》

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。
南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は
鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身
の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め多くの文化
財を有する。

唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録
されている。

『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部
親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。
寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」など
の意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院
(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、
「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。

鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。
「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味
し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と正式の僧に授ける「具足戒」とがある。
出家者が正式の僧となるためには「戒壇」という場で「三師七証」という授戒の師
3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を
受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は
整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため官の承認を経ず、
私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会
秩序の乱れにつながっていた。


こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧が
いた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742
10月のことであった。
普照と栄叡は日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただ
きたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。
弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを
決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に唐で既に高僧として名の高か
った鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航
計画は挫折の連続であった。
ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破し
た。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで
流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し
高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。
753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっ
ていた。

遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は
翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。
同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を
授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。
鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、
天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。
大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)
5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。


唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは
町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル)。
境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。
また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒
平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。
寺内に現存する棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したも
のと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。

『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物
は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子
でともに来日した如宝の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、
羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。
また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。
金堂の建立年代には諸説あるが、おおむね8世紀末と推定され、鑑真の没後に建立
されたものである。

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安の代にまで引き継がれた。
平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛によって復興された。


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《 今月の撮影者・小倉 光 》


今月は急遽「唐招提寺」を、ということで1月26日一人で唐招提寺を訪れました。
南大門には消防署の方が、門から金堂を見ると前にはテントが張られて
何やら物々しい雰囲気。聴いてみると1949年(昭和24年)のこの日、
法隆寺の金堂が火災で焼損したことから、この日に消防訓練が行われる
ようになったとのことです。
ことに、私の撮影日には10年に一度の大掛かりな訓練だったとのことで
した。右の画像は放水されている「金堂」です。

 

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「のぼかん」の毎月1日更新のホームページ表紙を飾る、『全国200神社 仏閣紹介の撮影旅行隊』の 略称で、ホームページ第139号、寺社巡り第110回より活動しています。
宗派、信仰教義内容に捉われず、日本の津々浦々における信仰対象となっている、日本独特の建造物
と呼ばれる神社 仏閣の姿やその歴史をご紹介出来たらとの願いより、サポーターTeamが発足したの
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『日本二百寺社巡り』の、200寺社巡り達成予定が2023年1月予定❗  元気に楽しく挑戦します。
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