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のぼりりゅうかんめいほう




第160号 2017年4月1日更新

文字に観る不思議な世界





《 日本二百寺社巡り 第131回   京都市 三千院・寂光院 》    


 

                                                 
《三千院》
    
                             
    
                       往生極楽院


                   御殿門                    宸院(しんいん)
    

     
           不動堂                      観音堂


     
            聚碧園                    売炭翁石仏
 


《寂光院》

     
             本堂                     書院


     
            山門                    孤雲(茶室)
            

     
          諸行無常の鐘                  建礼門院草庵跡


     
         千年姫小松                     合掌地蔵


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《三千院》

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。
三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄
である。

京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の
里にある。青蓮院、妙法院とともに天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。


三千院と往生極楽院


三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比
叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後1871年(明治4年)
に現在地に移ったものである。
「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになった
もので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門
跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。
一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあっ
た阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内
に取り込まれたものである。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち境内南側の庭
園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀如
来及両脇侍像(阿弥陀三尊像)を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々
の寺院であった)。


天台門跡としての三千院

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)比叡山延暦
寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする
「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があった
ため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。

比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもっていた。
860
年(貞観2年)、清和天皇の命により承雲和尚が比叡山の山麓の東坂本(現・大
津市坂本)に円融房の里坊を設けた。この里坊を「円徳院」と称し、山上の寺院を
「円融房」と称したという説と、「円徳院」と「円融房」は別個の寺院だとする説
とがある。

1118年(元永元年)、堀河天皇第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺した
のが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。以後、歴代の住持として皇室や摂関
家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王も入寺したことがある。坂本の円融房に
は加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」
と称するようになったという。
最雲法親王は1156年(保元元年)天台座主(天台宗の最高の地位)に任命された。
同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所が設置
された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあ
った来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。

《寂光院》

寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。
山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太
子と伝える。平清盛の娘・建礼門院が平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』
ゆかりの寺として知られる。

寂光院の草創について明確なことはわかっていない。
寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したと
され、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の
地誌には空海開基説、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖
・良忍が開いたとの説もある。
現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

建礼門院徳子は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4
1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに
尼となって寂光院で余生を送った。
寂光院や三千院のある大原の里は念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であ
った。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて、後
白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物
語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴
するエピソードとして人々に愛読された。


境内

本堂は淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615年)再興したものであったが
平成12年(2000年)59日の放火で焼失した(犯人未逮捕のまま平成19年(2007
年)59日公訴時効成立)。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内
にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったもの
という)も焼けてしまった。
現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建された。同時に新しく作られた本尊や徳
子と阿波内侍の像も安置されている。

宝物殿は「松智鳳殿」という名称で、平成18年(2006年)10月に開館した。
徳子の陵墓はもともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理
下に移り、境内から切り離されている。


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《 今月の撮影者・小倉 光 》


京都市内からちょっと離れた大原は、静かなる山里と呼ぶにふさわしい場所でした。
3月の中頃にかかるというのに、三千院の庭園にはまだ先日来の雪が残っていました。
苔の庭に満ちる静寂からは自然の力を感じます。三千院と寂光院を結ぶ 参道には多くの
茶屋やお土産屋が軒を連ねていて賑やかで楽しい風情でした。
今回の参加者は米井さんと小倉でした。ありがとうございました。

 

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